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丸坊主

Author:丸坊主
40代の男です。
テニスは高校から始めました。
福祉の仕事をしています。

『勝つときは正しいテニスで正しく勝つ。負けるときも正しいテニスで正しく負ける』
→テニスで知り会ったテニスマスターT氏の言葉は、私の生き方にも影響を与えてくれています。

『やることをやって、それで止められたなら運が悪かったということと、一方でひとつひとつの技術のクオリティーが低いから、それを許してしまうのだと思います』
(テニスマガジン2009.8号より)
→杉山愛選手のこの言葉はずっと心に残っています。試合における腹のくくり具合と冷静な自己分析が両立した、素敵な言葉だと思っています。

試合において、『正しいテニス』や『やるべきこと』をやりきれたか。練習において、試合で止められた技術の向上を意識して取り組んだか。
そんなことを考えながらテニスをしています。

使用ラケット:
ラケット迷子を抜け出し、マンティスプロ295(初代モデル)に決まりそうです。

使用ストリング:
ストリングは完全に迷子になっています。
テンションも28P~55Pで、振り幅が大きいです。

使用シューズ:
アシックス一筋です。

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問答は続く
今回はチト重めなので
そういうのが苦手な方は飛ばしちゃってください。



先の草トーでのことです。

同じ日に同じ会場でジュニアの部もやっていました。
男女が混ざった形式の大会で
小学校低学年くらいの女の子が出ていました。
他に出ているのは見たところ小学校高学年~中学生くらい。
彼女は自分より体の大きいお兄さん・お姉さんと対戦する訳です。

と言っても実際にはお兄さん・お姉さんの強い球になかなか合わせられず
正直、試合の形になっていません。


「あの娘にはまだ試合は早い。可哀想に」

とまっさきに思いました。
しかしよく考えるとこれは残酷な感想です。


どのくらいのレベルだったら大会に出ていいのか?
それに満たない者は大会に出てはいけないのか?

私の感想は彼女の貴重な経験の場を奪うのと同じことです。



この根底には
「弱い者は守られねばならない」
という考えがあります。


ここで問題になるのは
①彼女は「弱い者」なのか?
②彼女は「守られること」を望んでいるのか?
の2点。

私が彼女の立場だったら
貴重な経験ができる場を奪うに等しい
私の感想をどう感じるだろうか?





なぜこんなことにこだわるのかと言いますと
この問答が福祉業界に居続けようと決めた
大きな要因になっているからです。




そもそも社会福祉とは
「弱者救済」
の思想から始まったものです。
しかし世界的にみて、いまだにこの思想でやっているのは
一部の国だけになっています。

わが国では救済の思想が根強く残っているものの
思想論ではなく経済的な面から
「自立」
に転換することが求められています。

といっても現実には諸法令に
「自立」
というラベルを貼り付けただけで
経済的な解決こそが最優先になっています。
考え方は二の次、三の次。
現場レベルで感じる限り
制度自体が「救済」を乗り越えているとは到底思えません。


ところで
「自由という名の放置」

「弱者救済」

その二択しか無かった時代。
 (もしかしたら現在も)

そのなかで「救済」を選んだこの業界の先達たちの意思は
至極まっとうであると思っています。
今日に至るまでの過程で
私なら到底耐えられないであろう苦労をされていることも
頭では理解しています。

しかし(それだけに?)その影響は大きく
「救済」から「自立」への過渡期であるはずの今
現場レベルの我々はまだ「救済」の思想に囚われています。

もちろん一方で「何かが違う」という思いも持っている。
我々(少なくとも私)はそういう疑いを持ちながら働いています。



そこで先の話に戻る訳です。

①(障害を抱えた)彼らは「弱い者」なのか?
②彼らは「守られること」を望んでいるのか?



もちろん綺麗事ではありません。
「守られる」ほうが得だから「弱い者」のポジションをとる
そういう部分も現実には見受けられます。
しかし「放置か救済」の二択しか提供してこなかった歴史のなかで
損得勘定で「救済」を求めるというのも自然なこと。

こんな記事を書く私だっていまだにその片棒を担いでいると言えます。



でも私は知りたいと思うのです。

「救済」を超えた支援とはどういったものなのか?
自分の中にある「救済思想」を乗り越えたら
何がどう変わるのか?


きっと「自立」という言葉はキーワードになるでしょう。
でもたぶん、そのまま解答にはなり得ないだろうとも考えています。



一度転職したものの、この業界に首を突っ込んでそろそろ10年。
それなりの年数は経ったのにまだ答えが出せずにいます。

福祉職が専門性を必要とされるプロの集まりであるならば
 (なかなかそういった見方はされませんが)
この問答は避けて通れません。
答えが出せない私はまだまだプロ以下。
今まで何をしてきたのか。
お恥ずかしい限りです。

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福祉の仕事 | 23:22:43 | Trackback(0) | Comments(2)
コメント
「救済」と言いながら縛りつけ、
「自立」という建前のもとに切り捨てる、
ということも現場では起きていますね。

問題は非常に複雑で、
福祉・医療・保健がからみあい、
さらに社会問題ともリンクしています。

答えは簡単に出ないでしょうし、
ひょっとしたら正解がないのかもしれません。
それでも丸坊主さんがそうされているように、
この仕事に関わる人、一人一人が真摯に考え続けることにこそ意味があるのだと思っています。
2007-11-09 金 11:54:31 | URL | まる [編集]
*まるさま

記事の内容とは全然関係ないんですが
ふと思い出した本の一節があります。

「遠くに行っちゃった人間はずるいね。
残ったほうの人間に自分が悪いみたいに思わせる。
でもね、踏みとどまってファイトする人間が
本当にヒーローになれるのよ。
人間、生きててナンボよ」
(金城一紀著 「レヴォリューションNo.3」より)

この10年弱、実に多くの同僚たちがこの業界から去っていきました。
私より断然優秀だった彼らの、去り際の心からホッとした表情を見て
とても辛い気持ちになったものです。

職業的なスキルに関しては未熟さを痛感していますが
私は踏みとどまってファイトする道を
選ぶ人でありたいと思っています。

ダメな職員であっても、この業界の中にいて考え行動することに
意味があるような気がするんです。
2007-11-09 金 21:51:13 | URL | 丸坊主 [編集]
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